15日は『終戦の日』です。
戦争を経験した世代は、いまや1割に減少。その“記憶”をどう受け継いでいくかが課題となっています。
茶道裏千家の前の家元・千玄室さん(100)。特攻隊員となるも、生き残り、その後、戦時中の自身の経験を国内外で広く語ってきました。
裏千家15代家元・千玄室さん:「私は生き残った。生かされた。何のために生き残ったんだ。多くの戦友たち、亡くなった方々、二度と、こういう戦争がないように、皆が念願したんだと思う。そのために私は生かさせていただいていると思う」
千さんが海軍に入隊したのは、1943年のこと。兵力不足に陥った日本軍は、20歳以上の学生も徴兵の対象にします。“学徒出陣”です。ちょうど大学生だった千さんも、その荒波に巻き込まれていきます。待っていたのは、厳しい訓練でした。
裏千家15代家元・千玄室さん:「(鉄拳制裁を)やられた、やられましたよ。飛行訓練をやっているときに報告しますよね。爆音がばーっと、他の機が回っている。『声が小さい』『歯、食いしばれ』ばーんと」
そして、千さんが命じられたのは無情にも“特別攻撃隊”、特攻隊でした。
茶道裏千家15代家元・千玄室さん:「ただいまから皆に紙を渡す。『諾』か『否」』か、どっちか書けと。名前書かないといけん。『否』とは書けないですよ。私は『熱望』って書いて、二重丸したんです。嫌とも何とも言えません。命令ですよ」
敵の艦隊に、飛行機ごと体当たりする。想像を絶する任務を前にしても、誰も逆らえない状況になっていました。
忘れられない記憶を残した写真があります。仲間たちにお茶をふるまう千さんの姿です。出撃命令を受け、死が目前に迫るなかで開かれた“最後の茶会”では、青年たちの思いがあふれ出したといいます。
裏千家15代家元・千玄室さん:「一緒に皆にお茶を点てて、最後に皆が『おかあさーん』って故郷のほうに向いて呼び出した。10人くらいいましたね。『おかあさーん』って。私も一緒になって呼びました」
今も頭から離れない仲間の一言。
裏千家15代家元・千玄室さん:「『千なあ、俺なあ、帰ってきたら、お前のとこの本当の茶室で茶飲ませてくれや』と言われたときに、もう死ぬのやと思ってたけど、特にぞくっときたんですよ。そうや、もう帰れないのや」
特攻で失われた命は約6000。多くは、10代・20代の若者たちでした。仲間も次々と散っていくなか、千さんに出撃命令が出されることはなく、戦争は終わりました。
裏千家15代家元・千玄室さん:「(Q.帰られてから思い出すことは多かったですか)もう毎回、戦争の話はするのが嫌でした。でも(同期の)14期会が結成されて、生き残りが集まってきた。初めて、そこで体験談を話さなきゃいかん。あいつも死んだ、あいつも死んだ、ああ…って言ってね。皆、肩寄せて泣きましたよ。
私たちは、何のために引っ張り出されたんやと。お国のため、お国のためって、皆そんなこと思ってません。親が、子が、皆、幸せになるように。
『平和』という言葉を使うの嫌なんです。『平和』を使うことは、戦争とか無残な殺し合いがあってこそ、『平和』って言葉を使うでしょ。それがなかったら『平和』という言葉、使いませんよ。どんなに謝っても、どんなに慰霊しても、戻ってきません。平和っていう言葉を使わない世界にしなきゃいかんのです。
今年は戦争が終わって78年。何年、何年っていうよりも、戦争がいかに人類を堕落させていくか。こんなものあっちゃいけない。止める気持ちを皆が持ってくれたら、いい語り部になって、次々と世代に受け継いでいただきたい。なかなか、こういう話できませんので、私の最後の遺言として、伝えていってください」
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